誰かにとっての1番

男女問わず、年齢問わず、誰かにとっての一番でありたいと思うのはよくあることでしょう。小さな子供は、ママやパパにとっての一番で在りたいと思い、ママにとっての一番が自分ではなくパパであるとかその逆に怒り心頭なんていうかわいい話はよく聞くことでしょう。


大人の世界では、もっとよくあるというか。結婚していた場合に、その相手以外の人と何らかの親密な関係のある人がいて、それが相手の知るところとなれば問題になっていることは星の数ほどありそうです。


浮気がいいとか悪いとかそういう話ではないのです、残念ながら。小さな子供も大人もどこかに「誰かにとっての一番でありたい」と望む気持ちがあるんだろうなとふと思いました。誰かにとっての一番であることに何らかの価値があるという集合意識があるように思います。


どうして誰かにとっての一番を望むのでしょうか。どうして誰かにとっての一番に価値があるのでしょうか。本来、子供は親からの無償の愛情によって自己肯定感を満たしてもらえれば確固たるベースができます。しかし、これがなかなか難しいのが現実で、その親の代わりの誰かを探すのではないでしょうか。


一番であることによって、2番以下の人より価値があると言ってもらえている、証明されているような感覚をえられるからでしょう。価値がある事を証明してもらうためだけなら、順位は関係ないはずです。でも誰かと比べて、価値があると言ってもらえることがより大切なファクターなんでしょう。 本来、誰かにそういってもらわなくても人はそれぞれに価値があって、ただそこに在るだけで、他社の介在なく価値があるのです。でも何らかの理由で、自己肯定感が下がってしまうと、こういった介在が必要になるのでしょう。


しかし、やはり誰かにとっての一番に価値というか、実際のところ意味はないのです。だってその誰かがどう言っても言わなくてもその人の価値は変わらないのだから。これは、集合意識的な幻想だなと思いました。 親もしかりです、親が言っても言わなくて価値はかわらない。ただ受け取る側が、肯定的に自分をみれるかみれないかの違いなのです。


そしてこの幻想はより深刻な問題を引き起こすのです。この幻想につかまってしまうと、その誰かなくして、自分が存在しえないような錯覚に陥るのです。大袈裟ですが、簡単にいうとその誰かに依存するのです。結婚は依存であり悪であるなんてことを言っているのではありません。もっと枠組みの大きな話として、人の自立を阻む要素になってしまうということなんです。 


多くの人が、その誰かを心にとどめているはずです。パートナーだったり、子供や親だったり、上司や部下、恋愛対象には限らず可能性はあります。ただ、一般的に家族や恋愛感情を抱く相手が対象になりやすいでしょう。なので、一過性の恋愛ごとが横行するのかもしれません。


依存してしまう人の傾向やどうして依存したいと思うのかを考えていて、誰かの一番という言葉が実はうかんだのです。依存癖のある人は、誰かの一番という言葉に弱いでしょう。しかし、誰かの一番は幻想なので、依存癖のある人は幻想からでるのが難しいなとおもったわけです。依存しているから幻想からでにくい、幻想にはまってしまっているから自立しにくい。どっちが先かは個別のケースによるでしょう。


しかし、今回考えていたことからすると、依存癖をなおしていくには、「誰かの一番に価値がある」というフレーズが幻想であるという事を感覚的、左脳的に受け取る事ができれば、大きく自立へ向かうことができそうだなと思いました。 自立してね、と言ってももわかりにくいですが、上記フレーズが幻想であるということをある程度ロジカルに説明は可能だと思いました。


幻想はあくまで現実とは異なります。何等かの幻想につかまってしまうと、そこかしこ、いたるところで現実との不整合に直面し、その都度自分の幻想を守ることに必死になって、より幻想にはまっていくでしょう。深くそこに落ちてしまう前に、集合意識的な幻想からでたいものです。自立のおまけもついてきそうなので、お得に思います。















睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵