いつもいっしょにいようね

小さい子供は仲のいい友達といつも一緒ね、いつまでも友達ねとほほえましく言い合っていることがあるでしょう。大人は、ちょっと冷めた目で、いやそんなことはなかなかないよね、と現実的な思いをいだきます。大人になればなれるほど、こういった一瞬の想いはなかなか現実にはならず、意図せずとも何等かの別れというほどでなくても疎遠になっていくことが多いのが実際のところでしょう。


この実際の現実に、幼いころは心を痛め、転校や引越など物理的な望まぬ別れを経験するとインナーチャイルドが形成されてしまった人もいることでしょう。しかし、引越や転校以外の場合でも「いつも一緒ね」は、広く薄く人の心に、幻想のように根付き何らかの心の傷になっているのではないでしょうか。


とても響きのいい、なんとも心地よく、自分は一人ではない、自分を見てくれている誰かがいると心強く感じたり、安心感を感じるフレーズではあります。「いつも一緒」。 当然、四六時中一緒という意味ではないのですが、そうではなかったとしても、ある一定時間を共にすごす、そしてともに過ごすにあたっては、一定の価値観や嗜好が共通していることが前提、そして誰よりもお互いを優先するであるとなっているのがこのフレーズに多くの人が投影している意味付けではないでしょうか。


何を言っても、行動しても、そこに齟齬はなく、自分の提案をそうだねと受け入れてくれるそんな人の存在を前提にしている。いつも一緒。もめる事や意見の衝突は想定されていないのです。だからこそ小さな子供は、このフレーズをこのみ、しかし、当然衝突がおきるので、「いつも一緒」の現実は続かないのです。


こんな投影をしていることに気づかずに、相手に「いつも一緒」の気持ちをいだいてしまうとたくさん心の傷を負うことになるでしょう。人は、それぞれ別個の存在で、一定の傾向性が似ていたとして、すべてのタイミングで同じように感じたり行動することはないのです。衝突といわないまでも、完全一致はありません。いや、そんなことわかっているよ、と反論が聞こえてきそうです。


しかし、心の深い部分でこの点が完全に腑に落ちている人はどれくらいるのでしょうか。

パートナーや親子関係において、全くそんなつもりがなくても「いつも一緒」のベースにある幻想を持ってしまっている可能性はとても高いように思います。幻想をもっているけれど、現実には望むようにならなかったから、あきらめているだけ、ないことにしているだけであれば、ふとした拍子にその思いがでて相手に怒りを感じるなんていうことになっていそうです。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵