欲しいものや行きたいところ

娘は高校受験をする予定です。どこを受験するのか、どこなら合格するのか、あれこれ考えはじめたようです。しかし、驚異的な感じで勉強はしておらず、見事なひどい成績です。この成績で現実的にいくことができる高校があるのか?と先生に質問したくらいのレベルです。一応、選ばなければあるとのことでした。


しかし、本人は能天気な感じで恐れ多い偏差値の高校に行きたいと、何度か話していました。そうなのね、と返事をし、行きたいならいけるように成績をあげないと、いくらいきたくてもいけないんだけどね、と補足をしながら。


そんな能天気な会話をし続けるのも難しいくらいになってきました。本人も少し現実を察知し始めたのです。そして、これまた驚くくらいのんびりしたペースで勉強をし始めました。そのため、いっこうに追いつきません。そうすると、「○○高校に本当は行きたいと思っていないのかもしれない、私」と話し始めました。そして、第1希望よりずいぶん偏差値の下がった高校に本当はいきたいのかもしれないとのことだったのです。


そこで、質問してみました。最近、娘はイタリアのハイブランドとそのバッグに興味深々でいつかもってみたいと思っています。一方、日常的に使っている洋服やバッグについても中学生らしいブランドでお気に入りがあります。質問は「30万円予算があって、イタリアのあのバッグと、原宿で売っているいつものブランドのバッグ、どちらを買う?」答えは、ハイブランドのバッグを買うとのことでした。


そして、「今、○○高校に行ける偏差値があって、○○高校でも、✖✖高校でもどこでもいけるといわれたら、どこを受験するの?」答えは、○○高校とのことでした。つまり、何らかの制限や無理かもしれないと感じた時に、あきらめるために娘のような発想に人は簡単になるのです。手に入らなかったり、失敗したり、傷ついたりする恐怖をさけるために。


娘は私の質問で、自分のこういった心理に気づいて、もう一度あれこれ自分で考え始めました。まだ、若くて、固定観念も失敗の経験も少ないのでこのくらいの質問で軌道修正してみようという気になるのでしょう。大人だったら、固定観念によっていやあ、そんなことはないよ、当初から思っていることに変わりないと、自分の本音に触れることをさけてしまう可能性は大きいです。


これが習慣になってしまうと、「これがいいな、欲しいな」と普段思っていることが、本来の自分の感覚ではなく、諦めなどの上に成り立ったものである場合、本当に満足した幸福感のある人生にはならないのではないのでしょうか。


一時期、私も自分が何を欲しているのかよく分からなくなった時期がありました。自分の本音が求めるものが何なのか?そこを探り当てるのも実際は、なかなか大変だと思っています。しかし、不可能ではないのです、娘のように心がトラウマに覆われている絶対量が少なければ、柔軟な心を維持できれば、本音の求める欲しいものを探しあてる事は可能です。


あれが欲しいと思っていて、なかなか手に入らないと悲しい気持ちになったり、惨めになったりしている場合、特にそれが、本音の求めるものであるかどうかを確認することは自分を幸福にするための1つのステップかもしれません。本当に欲しいものであるかもしれないし、そうでないかもしれないのです。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵