一人になりたかった謎

どうしようもなく一人になりたいというか、家族、夫や娘が面倒で面倒で仕方ない時期が定期的にやってきていました。当時は、理由も全く分からず、何か問題がおきたり嫌な事があったら何等か対応ができたのですが、まったく思い当たらなかったのです。でも、強烈に嫌で同じ部屋の空気を吸うのも嫌な感じでした。


あまりに嫌すぎて、自己嫌悪すら感じていました。家族は私になんら危害を加えるわけでもなく、普段通りなのに突然、目の前から消えてほしいと言っているようなものだったので。絶対これだと、核心をもつにいたっていませんが関係ありそうなことに意識が向きました。


「構われるのが面倒、ほっておいてほしい」という気持ちと「構ってほしい、わかって欲しい」という気持ち。


両者は反対の気持ちのように考えられます。しかし、前者は、わかってくれない人は構わないでほしい、理解してくれない人はいらない。わかってくれる人に聴いて欲しい、そして、そんなわかってくれる人がいないことが苦しい。だから、それ以外の人はほっておいてと。


後者は、構ってほしい、わかってほしい、聞いて欲しい、聞いて欲しいからこそあれこれ誰かにアドバイスして構いにいったり、自分の意見をあれこれ説明する。いわゆる、おせっかいは、実は構ってほしい、孤独感の現われととらえられるでしょう。これもゆがんだ依存です。


最近の風潮として、あまりプライベートに入り込んだり、パーソナルゾーンを侵害するのは失礼だということで、昔ながらのおせっかいな人は減っているように思います。でもこれは、孤独感がなくなったり、構ってくれなくても大丈夫というわけではなく、風潮的にそのような行動、言動が抑制されているだけで、本質が変ったわけではないように思います。 では、このわかって欲しい願望はどこにいっているのでしょうか。


SNSやインターネットの発展で、個人が自分と共感できる人とつながったり、発信することが簡単になりそちらに意識が流れている部分もあるのかなと思います。しかし、一方でその本音をからかうような又は利用するようなことも起きていて、本当の意味での共感や自立した上での、分かり合える関係というのはなかなか難しいものです。その場にいる人達みなが自立を意図しているわけではないし、Facebookの「いいね」をするしないについて、微妙な心理が働くというのもその片鱗でしょうか。


私が家族に感じた嫌悪感は、この前者のわかってくれないならいらないという強い、諦めの感覚だったのかなと思いました。それもかなり依存的な薫りがします。少し自分の謎がとけたような感覚です。6,7年頭を悩ませていたので、ちょっとすっきりした感じです。となると子どもが自立し始めると、なんとなく親や家族を煙たがって部屋にこもるのとベクトルは一緒かもしれないとおもうと、大人げなさ過ぎて、がっかりです。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵