中学生の頃の授業

普通の地方の公立中学に通っていました。高校受験することは常に意識はあったように記憶しています。毎日何かすごく楽しいことがあるわけでもないし、受験もあるから学校にいっていた感じ。遅刻しない程度に登校し、授業が終わるとそそくさと下校していました。最低限の義務をはたし、タスクをこなすように。来るのは後の方だけど、帰るのは一番でした。


ある朝、娘が前日の学校の授業のことを話してきました。内容は、聞いていた授業が変更になって別の教科になったという話で、せっかく教科書を持って行ったのに使わなくて損をした的な内容でした。その話を、へえとほかのことをしながら聞いていてふと思い出した感覚がありました。


最初は「そういえば中学の時は、子供にわからない理由で、突然授業が変更になって想定していなかった教科の先生がきたことがあったな」と。その流れで、授業中に座っている「この席から立ちあがってこの場から離れたい、この授業を聴くのは嫌だ」と感じ、そのある種の衝動をぐっと抑圧していた感覚、自分の中で強い力が拮抗してぎりぎりその場にいたような感覚を思い出しました。


とても強い抑圧だったんだなと、今となって、その嫌悪感を理解してあげられた感じです。ああ、あれは抑圧していたんだなと。当時からその一瞬前まで、そんな嫌なことがあっても多少は我慢しないとね、だからそういう嫌だなとおもうことはうまくごまかして過ごすのが肝要だなと、いう固定観念があったのです。まだ今もありますし、実際ある程度この観念がないと社会生活は難しい面もあります。


ある一定レベルまでは、感じる嫌なことや好きなことを大切に、自分の心の声に耳をかてむけるということはここ数年心がけていて随分上達した感じがありました。でももっと原初的な感覚としてのある種、動物的な衝動というか理屈なしの自分の感覚を抑圧している要素があるんだなと思ったのです。


この微細なレベルの抑圧をじゃあ我慢しなくていいのかというと、勿論そうではないのです。解決できることはいずれ解決のみちをさぐればいいでしょうが、まずはその抑圧の存在に気づくことが大切です。自分の自我の声を拾う感じでしょうか。その存在に気づいてこうありたいと思う気持ちと、現実のギャップを理解してそのギャップがあるから、自分は今望むようなことはできないという認識をもつことが対応策のようです。私にとっても新しい視点でした。


昔は、いやそんなギャップを認識してだから、何なのだ!と思っていました。認識したところで状況は変わらないし、望んだとおりにならないじゃやないか、全然期待していることと違うものと、怒っていました。でも、この認識が自分の心とのコミュニケーションになりある程度心の満足感はあがるようです。


無駄だと思ってやっていなかった、正確にいうと、できていなかったのですが、これに気づいて認識するだけでも、穏やかになるというか抑圧の度合いが減る感覚があります。実際に、最初、思い出した授業中の感覚も、同時に状況を思い出しそのギャップがあることを理解したらなんだか強いつっかかりはなくなりすっと胸のうちが楽になったのです。


自己成長や幸福感があがるというのは、わかりやすく物が手にはいったり、ラッキーなことがあるわけではないのです。小さなレベルの心の満足感があがっていく、この積み重ねであって、その過程でたまにラッキーなことがあったり欲しいものが手に入ったりも含まれているんだなと思います。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵