諦め

「ある程度自分のやりたいように、そこまで窮屈や抑圧なく生きているわ」と、割と今の生活に満足を少なからず感じて生きている人がこのブログを読んでいる人には多いのかなと思います。日々のくらしにことかき、今日の夕食をどうしようかという感じのかたはあまりいないのかなと思います。


でも、一方でどこかしら、諦めも感じてくらしているという気持ちもあるのではないでしょうか。私もどこかしら、諦めはあり、100%諦めなしでいきているよと胸をはれるような状況ではありません。諦めをどこか否定的に考えたり、諦めをみないようにしているというかそんな側面があります。


小さいころに諦めを感じ、それ以上望み続けることを辞めている領域があるなとふと思いました。全方位にそうではないです。諦めずに、なんとか頑張ってなんとか解決策や打開策をもさくし諦めないでやってきたことや分野もたくさんあります。でも、諦めていることもあるということです。


一番、諦めてたなと思うのが、母への期待。現状認識は、母なりにとても一生懸命私を育ててくれて、私の意志を尊重し、私の進む道を邪魔せずみまもってくれていた母でした。でも、母は掃除や片付けは好きなのですが、料理がいかんせん得意ではないというか、決まったものしか作れない人でした。さぼっているわけではないのですが、何かを創造したり新しいことにチャレンジするのが得意ではないのです。ただそれだけ、だから私達の食事のためにでかけるとなると準備をして、母がなくても問題ないように支度をしてくれていました。


しかし、私の気持ちはどうやらそこに満たされない思いを感じていたのです。何か食べたいものと違うなと、それは母だけに限ったことではなく、外食してもいつも頼んで食べたものに何か違うなと感じることが多かったのです。それに関して私の好き嫌いが多いという、ネガティブな印象をもっていました。自分は好き嫌いが多くて、せっかく出されたものを残さずに食べられないのだと。


食べたいものが食べられないという諦めと自己否定感がごちゃ混ぜになっていたのだなと思います。諦めないでそのギャップを埋めることに努力していた半面、していない部分もあったこと、そして努力しても得たいものが得られないという理想と現実のギャップを見ないようにしてきた部分があることを認識したのです。


全方位的に自分を肯定して生きて行くことを模索するならこのギャップも放置しておくとそこかしこで顔をだしてつっかかってしまうのです。ふとしたことに、得られない残念な気持ち、それがついて回る限りは、肯定的に生きることは難しいのだなと、ここ最近、どう扱うのか考えあぐねていたことの方向性が見えてきました。


諦めはある段階や場面ではしてはいけないものであり、ある段階では必要なものでもあり、これも状況によって扱い方がことなるのです。今の自分の諦めがどのあたりの諦めなのかを常に見極めて取り扱う丁寧さが求められているのかと思いました。雑な私には少し難易度は高いことです。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵