追い詰める

私の父は、長女である私に結構厳しくしつけという名目であれこれ厳しいことを要求してきました。父もおそらく祖父から要求されたのでしょう。

そのため、私は、いつ何時、足元をすくわれて怒られるかわからないので、そうならないように最善を尽くすようになったわけです。

それは、ある意味、受験勉強をするときなどはなかなか役に立つ技術でした。また、不要な無駄を省いたり、タスクのクオリティを上げることにも貢献するものでした。

しかし、この根底にあるのは、恐怖や不安だったわけです。失敗すると怒られる、ダメ出しされる、わたしには価値がないような感覚になる、だからそうならないように頑張るというパラダイムです。

働き始めてからは、なおこの傾向が強まりました。会計士という職業柄、間違ってはいけないわけです。他人の間違いをみつけるけど、自分は間違ってはいけないような、世界観なわけです。お客さん以外に、金融庁や会計士協会、監査法人内の品質管理部門からいつ何時、抜き打ち検査がくるかわからなくて、とにかく間違わないようにという世界観に生きていました。

当然疲れます。早く疲れてよかったかもしれません。この見るからに疲れる世界からでたくてしようがないと、感じられたことが今につながっているので。

間違ってはよくはありません。仕事だし、一定の責任を請け負って対価をえていたので。でも、それは事実として職務遂行するだけでよくて、不安や恐怖を感じながら職務遂行しなくてもいいわけです。でも、いつも不安や恐怖がついてまわっていました。

感情をあつかって、このポイント以外のところからも自分の不安や恐怖をあつかって絶対量のネガティブな感情がへってきました。そうなると、仕事に関わってでてくるネガティブな感情もぐっとへってきて、仕事をするのがやりやすくなりました。ただ、淡々と計算したり、書類をかくだけで、不安や恐怖がにじり寄ってくることがへってきたのです。

しかし、長年培った癖はなかなか変わりませんでした。何か失敗したり間違ったりすると、新たな不安や恐怖が出てくることがありました。頭では、いやいやそんな間違った事で、殺されるわけでもないのにと、わかるのですが、居ても立っても居られない感覚になっていました。

だから、間違わないように、間違っては駄目だと自分を追い詰めることがやめられないでいました。そう、誰もまちがっても、わたしを責めたりしないのですが、自分が責めていたのです。幸福への第2ステップでしょうか。

これにも、慣れが必要です。責めないように責めないように、自分を監視しておかないといけません。監視中は、実際に間違いを起こして、不安に襲われるときもあります。そんなときに、従来の対応をせず、実際に殺されるわけではないことをよく感じてみることです。そして、それを事実として認識していくこと、当たり前だけどその地道な心への問いかけ、語りかける事が変化のためには大切なことなのです。




睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵