こんな風になりたいな

小さな子供から大人までたいていの人は、「こんな自分であったらいいな」「こうなりたいない」「あの人に憧れるな」といったことを考えるものではないでしょうか。1つの見方にたてば、こういう憧れや理想とする対象があるとそれに向かって進むことができるのでポジティブなことにとらえられるのではないでしょうか。

こうなりたいとか、憧れるといったことすら無いとなると、大丈夫?なんて世代的には言われた人も多いかもしれません。しかし、世代によっては、そんな憧れや他者との比較をしても意味がないので、そんなことを考えたこともないし、考える事は無意味だと考える世代もあるでしょう。

後者の憧れや理想を抱く事をしない世代は、少なからず「諦め」の心境にあるのでしょう。景気もよくなかった時代、ゆとり世代と呼ばれあまり明るい未来を想像しにくかった影響でしょうか。こういう感覚が強くある人は、では本当に諦めているだけなんでしょうか。諦めというのは、理想があっての諦めで、うまれて生きている人間の本質として何かを望まないことはかなり少ないのかなと思っています。これはこれで、少し面白くない人生になってしまう可能性もあるのかなと個人的にはおもってしまいます。何かしら希望や憧れがほんの少しでもあるのに、社会全体の雰囲気や環境によって諦めることが当たりまえになっているわけなので。

前者の事、つまり私も属しているグループについて。憧れは、ある意味のガソリンのような機能の果たしてくれるわけです。そのためある局面においては、一定の結果がでやすくていい影響もあるわけです。しかし、この局面が過ぎると、憧れや理想は自己一致感を毀損して、無いものねだりになったり、本来十分価値ある自分自身を受け入れられなくなることにもなります。

言い換えると、人は、自分ではない者になりたいと、憧れを抱くものなのかもしれません。

どうしてこういう矛盾やずれが出るのか、私にもわかりません。原因がわかれば、解決や修正もしやすいのですが、今は、ただずれが生じやすいものなんだなというところまでしか理解は進んでいない感じです。

人は、それぞれその人独自の価値があって、唯一無二な存在なわけなんですが、その唯一無二な存在ではなく、自分とな異なる誰かになりたいと思うのです。もっと鼻が高かったら、もっと肌の色が白かったら、もっといい学歴だったら、違う人と結婚していたら、違う両親のもとに生まれたら、そんなことを思うものなんでしょう。

20代の後半、強く思っていました。どうしてこの両親のもとに生まれたのであろうと。他のひとの両親はこんなんじゃないのにと、頭を抱えて嘆いていたことがあります。その時はある思いに囚われていて、その視点からしか自分の両親を見ることができなかったのです。すごくめんどくさくて、できることなら縁をきってしまいたい、消えてなくなってくれればいいのになと主人にそんな話をしていた記憶があります。勿論、今は、当時のようには思わなくなり、今の両親でありがたかったなと別の視点でみることができています。

それくらい、人はその時その時の状況や感情に囚われて、自分の存在している環境や価値を嘆いてしまうものなんだなぁと振り返っていました。勿論、今でも、こうありたいなと思うことがあり、悩ましく思う事もあります。でも、まあ解決の道は何かしらあるだろうと思って、以前ほど嘆かなくはなりました。

自分ではない自分になりたいと、嘆くこと、これの意味するところは何なんでしょう。自分ではない何か、誰かのせいに、今の自分の望まない状況の責任を押し付けて楽にになりたいのかなと、思う事があります。今の自分でなかったら、こんなことにならない。原因を作っている自分がなくなって他の誰かになれたら、今の状況はなくなると期待しているように感じました。

確かに誰かのせいにできるのは、安易でとても一見楽に見えます。だって、仕方ない、と言い訳していられるのです。でも、本当に楽なのかなぁと思ったりもします。ずっと死ぬまで、誰かのせいにし続けなければいけない。常に責任をおしつける対象を探し続けなければいけない。これはこれで大変だなぁとも思うわけです。

だったら、自分ではない誰かになるためにあれこれ頑張るより、自分という人生を生きる選択をしたほうがかえって楽なきがしてきました。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵