クリスマス

今年は、クリスマスの連休は特に変わり映えのしないものでした。夜の食事の予約も特にいれず、自宅で過ごしました。1晩は、主人と娘が主人の実家へ行ったので私はこれ幸いと仕事をして遅めの軽い夕飯を一人で簡単に済ませました。

若いころ、もしくは数年前の私なら、自分ひとりで連休に夕飯なんて、惨めな感じがしたり、寂しい感じがしたり、あれこれ感情が沸き起こって、内心、心穏やかではなかったはずです。

当然、若いころ、20代の前半なんて、いかにクリスマスを過ごすか、そこまで真剣に考えてはいませんでしたが、とはいえそれなりに予定を立てたりして何となく一人寂しくクリスマスにならないように意識していたようにも思います。世間の風潮もまさにそんな感じでしょうか。一人でクリスマスを過ごすことを、さも寂しいこと、一緒に過ごす相手もいない、グループもいないなんて、大丈夫?といった風潮が作り出されていてその妙なエネルギーに悪影響を受けている人も多いようにお思います。

そんなに、一人でクリスマスを過ごすことは否定的なことなんでしょうか。誰かと食事に出かけたり、みんなで食事をしないと問題なのでしょうか。だってそんな感じなんだもの、と答えになっているようなないような返事が返ってきそうです。

一人で過ごすことの価値というのは絶対的にあるわけです。特に、仕事もあって家族もいてとなる私にしてみれば、お一人様の時間が貴重このうえないわけです。でも、そんな私でさえ、なんとなく寂しい感じを感じていたわけです。これもやはり自己固定感に関わることなんでしょう。

誰かと一緒に過ごせる、誰かに選んでもらえている、他者による自己価値の下支えがないととても心もとなく、落ち着かない人が多いのでしょう。若いころは特にそうなりがちなことは仕方ないのかもしれません。この落ち着かない感じを、誰かを無理矢理パートナーとしてみつけて拘束することより、自分自身で解決できれば、もっと人生は楽て幸福感に満ちたものになるのではないでしょうか。

こんなことを言う私ですら、結婚した当時、ああやっと信頼できる人がみつかった、やれやれとおもったものです。特に両親に対して、若干不信感を抱いていた私にとっては渡りに船でした。しかし、主人がいても、埋められない孤独感のように感じる不安や恐怖感は自分自身でしか解決はできないものでした。

いくら主人が何かしらの言葉をかけてくれても、自分がそれを受け取れなかったら何も効果がないわけで、受け取れないのは、自分のベースが整っていないことが原因で、落ち着けないのは主人のせいではなく、私の問題なわけです。だから、一緒にいても何だか孤独感のようなものを感じていた時期もありました。当初は彼の問題のように感じていましたが、それは幻想で、私自身の問題であったんだというのが後になってわかったのでした。

今年のクリスマスはその意味で、些細な事に意味づけせずに、過ごせた、落ち着いた時間でした。自分ひとりの時間も、仕事をしている時間も、家族と夕飯をたべる時間も、結局は私の自己固定感の安定度合いで感じ方や色味がかわってくるようでした。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵