自分の人生を人に預ける

どうにも上手くいかないことはあるものです。人生が自分の思うままにいけばなんて幸せなんだろうとしょっちゅう思っていました。思い通りにいかないことが多すぎて、悲しくなったり絶望感のような感覚を感じたこともありました。一番最初の絶望体験は、童謡でポケットをたたくとビスケットが2つ、3つ、、、増えていくという歌が大好きで、食いしん坊だった私は、幼稚園の制服のブレザーのポケットにビスケットをいれてたたいてみました。でも、 ビスケットは増えていませんでした。 ああ、人生はこんなものなのかと、現実はこういうものかと、哀しくなったのでした。

笑い話のような体験ですが、こんな絶望感が積み重なっていくと、うまくいかないもの、いくはずのないもに、思う通りには運ばないのが人生という感覚に支配されてしまうでしょう。人間の脳の性質からして仕方ない面もあります。でも、やっぱりなんとか少しでも思うよな人生をと考えないわけではなくて、次の行動は、自分がだめなら誰かほかのひとに頼んでみようという発想になるのです。 しかし、この発想は、薄く潜在意識に根をはり、顕在的には本人がきづいていないことが多い。わかりやすいのは、若い女性が雑誌の西洋占星術の記事に一喜一憂するような感じですが、ここまでわかりやすいのはあまりなくて、家族やパートナー、身近な友人や、尊敬する人、社会的に影響力のある人、そんな人達から発せられる言葉に何かしらの意味や意義を見出してそこに自分の選択をゆだねてしまうことが多いように思います。 意図的に、意思をもって、その意見を採用しよう、万が一だめであったとしても採用したのは自分だと、顕在化できた上で選択をゆだねているでしょうか。

まずは、自分がそういう状況になっていないか、注意しておくことが、自分らしく幸せな時間を過ごすためには必要です。 誰かにゆだねた人生は、いつも目の前に起こる現実をその誰かのせいにしてやり過ごし続ける人生で、自分の人生にはなりえないのです。

また、間違いやすいのは、ゆだねる事と、誰かの意見に耳を傾けることとは全く異なるのです。誰かの意見に耳を傾けて、結果的に、その誰かの意見と同じ結論を採用したら、これはゆだねたことになるのか? ならないのです。その差は、とてもわかりにくく、多くの人が誤解しがちなところですが、採用に自分が責任を持つきがあるかどうかです。だって、そういわれたからという小さな小さな心の声がしている間は、ゆだねてしまっているのです。微細な違いですが、この積上げは大きな相違となってその人の人生に影響を及ぼしてきます。

たとえ失敗してもいい、辛い事になったとしても、自分で決めてその辛さも受け止めていってみましょう。そこで得られるものが必ずあって、そこで得たものが、次なるステップアップには必要なのです。ゆだねてばかりの人生は、結局自分の人生にならない。いつもどこかで不満を感じながらいきることになる。ゆだねても不満がたまっていくくらいなら、ゆだねず自分で選んで、その失敗や苦労も甘んじて受け止めてみませんか。 あの人は失敗なんかしたことがないし、ついているよね、と感じる人が周りにいるはずです。でも、その人達はみんなの知らないところでたくさん失敗してその人なりに傷ついて学んでいることが多くあるものです。 成功も失敗も実感がなくては、意味がないのです。たとえ誰かにゆだねて成功しても、次の成功を実感をもって再現できない。失敗も同じ、実感のない失敗からはえられるものは少ないのです。

自分の人生を自分の手のひらに握りしめて生きていきたいと思います。

私も人の顔色を窺ったり、きをつかって、息苦しかったことがあります。その状況で得られるメリットもあったから私は息苦しさに甘んじていましたが、あるときやっぱり、苦しいのはやめたいと感じたのです。そこから出るときは、未知の世界で怖くて、どうしていいのかわからなかった。でも、わからなくても一歩進んでみるしかないのです。この一歩はどんな人にとっても同じ不安と恐怖にまみれた一歩です。 恐怖におびえて、息苦しさを選ぶのか、恐怖に少しづつ立ち向かって今より幸福感を感じられる、生きている実感のある人生を選ぶのか。どちらも自由です。でも、私なら、生きている実感のある人生を生きたいと思います。 誰かに自分の人生をゆだねることはしないで。











睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵