摩擦

生きていると、いろんなところで摩擦があります。テーブルの上においてあるお皿を移動させるだけでも摩擦は発生します。誰かと、お昼に何をたべるかを相談して一人はイタリアン、一人は中華となればこれも一致ではないので摩擦が生じます。こんなことでもめたりけんかになることはないですが、これも摩擦です。

私は摩擦がとても苦手です。ずいぶんましになりましたが、でもまだ苦手です。テーブルの上のお皿をひっぱって移動させようとする人をみると、「あ、私がもちあげていどうさせます」という気持ちになります。ランチの相談をしていて、イタリアンっておもっているのに中華っていっちゃったな、と心がざわつきます。お弁当をもってきているのに、ランチに誘われて断ると非常に申し訳ないきもちになる。極端な例ですが、枚挙にいとまがないくらい摩擦がきらいで、さけたいと思って生きてきました。

摩擦を生むくらいなら人と付き合わないほうがいいとすら思っていたようです。集団でいると当然ながらみんな個性があって考えも思いも、感覚も異なります。でも、異なるなかで

その感じていることを全員分満たすようにうまく決めたり行動するのは無理なわけです。そうなると私は、これがいいなと思ったのにその通りにならなかった人の心の痛みに妙に共感してしまい苦しくなっていたようです。単なる、癖なのですがこれがやめられないので、そういう場にいたくないという意思決定をしてきました。自分の思いが通らないのも嫌なのですが、通らない人を目の当たりにするのが好きではなかった。

こんなことを摩擦と定義すると、摩擦がおこらない瞬間はないのです。みんな自分の好きがあるわけで、やりたいように言いたいようにすごしているのだから。それでこそ自分らしく自分の道をいきるわけなんです。だから、摩擦を嫌がる必要はなく、「摩擦と決めている私」が推測した「相手の感覚や感情」はある意味、私の幻想ともいえます。私が、幻想のように相手の感覚に寄り添う必要はなかった。 でも、なんだかそうしてしまっていたので、とりあえず辞めることにしました。程度の差こそあれ、みなさんにもそんな摩擦を嫌がったりこわがったりして窮屈になったり自分の枠をせばめてしまっている人もいるのかもしれません。

違う形だと相手に気をつかったり、妙に申し訳なく感じたり、実際に表面的にあらわれてくる感覚や人それぞれですが、根っこは摩擦を恐れているのかもしれないですね。なかなか慣れないとは、思いますが、摩擦になれて、「ちょっとくらいの摩に擦気づかなかったとわ」といえるくらいになりたいものです。 空気が読めなさそう、感じ悪そうと心配する声がきこえてきそうですが、意外に、みんなは自分がおもっているほど摩擦だともおもっていないことが多そうです。

睡蓮と意識

一悟術リーダー ヒーラー 由利真理恵